23時49分

おたくのリハビリ

[雑記]アティチュードについて

やることがたくさんあるのに,今日はlainを何話か観た.あまりにも良かった.製作陣がつぎ込んだありったけの人智が作用していて,諸要素が神業的な塩梅で調和されていて,もうめちゃくちゃ面白くて,存在が奇跡みたいなアニメだ.私は気持ち悪いので感動すると割とすぐ泣くのだけれど,このアニメは観る度に泣いてしまう.

 

サブカルチックな話題を出したのをいいことに,もう一つ,そっち方面に関して思うことを書いておく.高校生くらいの頃から散々思っていたことで,もうさすがに思わないかと思ってたけど今でも全然思うので書いておきます.断っておくが別に大したことではない.

 

 

以前,文学でも音楽でも「受け手との相性が〜」みたいなこと言うアホはクソ食らえという旨のことを書いた気がするが.今回はその話をもう少し広げてみたいと思う.即ち,音楽でも文章でもアニメでも絵画でも映画でも,それらをevaluateする際,そのプロセスに受け手側の何かしらを介入させてはいけないということだ.つまり,あるコンテンツの価値(未定義)を算出する方程式があったとして,そこには消費者の何かがいかなる形でも変数として組み込まれることがあってはいけない,ということである.

 

その変数としてしばしば用いられるのがまさに「相性」だ.極めて曖昧な定義づけを以って用いられるそのコンセプトは,人為の結晶をいともたやすく蹴落としてしまう.あるコンテンツを良いと思わない,それは相性が合わないからと言って片付けるその傲慢さを,なぜか,多くの人々が持ち合わせている.

 

そうじゃない.例えば,技術を以って緻密に作られた情報量の多いものは,理解するのには最低限の時間,体力,インテリジェンス(バックグラウンド),そしてそれらを費やすことを惜しまない姿勢が必要で,そのいずれか,あるいはその全てを君達が持ち合わせていないだけなのだ.コンテンツは,少なくともそのような人々が考えるよりは,もっと普遍的なヴァリューを有していて,また普遍的に判断されるべきだ.そしてそれは,個人的な相性などという全く無関係な要素の従属変数では決してない.一流の消費者など存在しない.一流の生産者がいるだけなのだ.

 

 

類似した文脈で,「人個人ではなく,人為に注目する姿勢」の必要性はもっと広く認識されても良いと思っている.文学者個人ではなく彼が著した文学作品に,ピアニスト個人ではなく彼の奏でる音色に,哲学者個人ではなく彼の理論に,我々は注目しなければならない.そして,その境界は明確に区別されるべきだ.しばしば,そこに垣根のない人は散見される.何かしらの人為と対峙する時,我々オーディエンスはおろか,厳密には生産者個人が介入する余地もないのだ.少なくとも,我々の認識からは排除しなければならない.