23時49分

おたくのリハビリ

5/27

文字通りプレフィスを書いた日の翌日である今日.ほいじゃ早速一節綴りますか...とvivaldiのスタートページから当アドレスを開き,こうしてカタカタと打ちはじめたのはいいが,驚くほどに筆が進まない.これは無理もないことである.私は悪くない.なぜならー私は外食や買い物が好きだし,特に今日のような日曜日なんかは格好の日和なわけだが,そんな予定もない限りは専ら机に向かっているだけだからである.何が言いたいかというと,今日も悲しいくらいに勉強しかしなかった.

 

ここに一つの弊害が生まれる.前回の拙文を読んで下さった方なら分かっていただけると思うのだが,今日みたいな勉強しかしてない日の日記となると,もうその日の日記はただその内容についてオタクトークを繰り広げるだけ繰り広げて終わるという,結局普段のツイッターとなんら変わらない運用になってしまうのである.そして何より問題なのが,私の毎日の大半はそういう一日に終始しているという点なのだ.何かがおかしい.一介の学部生がこんな惨めな毎日を送っていていいはずがない.入学前のキラキラした大学生活に胸を踊らせていた私はどこに行ったんだー

 

絶望していてもしょうがないので,一般人の,いわゆる芸能人とかではない普通の人達のブログをいくつか見てみることにした.毎日日記書いてるけどマジどんな内容なのと思いながらさらさらと読み流していったのだが,そこには「午前中洗濯した」とか「メルカリの発送を2件済ませた」とか,極めてミクロ的な事象も逐一取り上げられていた.特筆すべきは,「気分がよかった」とか「私は効率優先至上主義なので」とか(一部改変あり),逐一その時その時に対応した自分の内面的な部分の記述も行なっているという点である.これは一見大したことではないように思えるが,少なくとも私にとっては感心すべき点であった.

 

というのも,彼らはそのミクロ的な日常風景の一つ一つにもきちんと自分の心情や理念を反映させており,尚且つそれに自覚的なのだ.自分を中心にして回る世界に生き,その世界を認識していることの証と言えるのではないだろうか.確固たる自己の存在認識なしには,そのようなことはできない.私などはまさにそれができていない.自分の存在をないがしろにして,ただひたすら客観的な世界の有象無象を捉えることに奔走していたのだ.それ自体は悪いことではないが,それだけでは人生のアクターとしての自分について云々することはできない.世界を客観的に把握するのと同時に,主体的な世界を構築しなければならなかったのだ.勉強しかしていないと思われる今日という一日にも,きっと先のブログで見たようなミクロ的な事象はいくつもあり,その都度私の内面的な部分が反応していたはずなのだ.私の人生の主体性が薄く,ひいては日記をまともに書けない理由はそのへんにある気がしてきた.

 

 

(ちなみに今日はGoogle Scholarで"Revisiting responces to preponderance: going beyond the balancing-bandwagoning dichotonomy"という論文を読んだりした.要約すれば,冷戦崩壊後の単極秩序では戦略としてのバランスーバンドワゴンの二択的なパラダイムはもはや適切でないみたいな趣旨の文章でした.まあミアシャイマーも,バンドワゴニングが有効な時って基本的にはバイポーラーの時くらい(NATO拡大については別視点からの検討の必要性アリだが)って言ってたし,こういうのが出てくるのってある意味至極妥当ですよね.コアリションもバックパッシングも戦略として多分に考慮の余地に入る)